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2011年08月30日

淡々とした冷戦。

一人目

最高の冷やし担々麺が食いたくなり、
Googleで店を検索するとにした。
試しに、
「冷やし担々麺 東京」と入力した。すると、
「もしかして:冷やし坦々麺 東京?」と聞いてくる。

はあ?
「東京」の前のスペースが全角か半角で何が違うんだよ。
と思い、少し、腹が立った。

しかし、よく見ると、「担々麺」と「坦々麺」であり、
「担」と「坦」で字が違う。当然、検索結果も違う。
全角と半角とか、調子に乗ったことを言ってすいませんでした。と心のなかで謝った。
人間は慣れてくると、途中を疑う。根本から疑うのを忘れる。問題はいつも最初から始まっている。

試しに、「担々麺 東京」で検索すると、Googleは何にも言ってこない。
第一、私のパソコンで「たんたんめん」と入力しても「担々麺」としか出でこない。坦々麺なんてない。
通常は「担」で、冷やしだと「坦」になるのだろうか。
漢字にうるさい奴が拘って、Googleの情報を操作しているのだろうか。
誰も文句を言ってないのに、多数派をわざわざひっくり返そうとしているときの苦しさを感じる。
「寿司」を「鮨」と訂正されるときのような腹立たしさと、どうでも良さが滲みでてくる。

ときには甘んじることも必要だ。
だけれども、どっちかが甘んじなければならないとき、譲り合いではなく、後味が小競り合いのそれであり、で残念である。
posted by hito at 05:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2011年08月28日

ハムの縄

一人目

ダルビッシュは大好きだし、
斎藤佑樹には是非頑張ってもらいたい。
もはや離れて9年目だが、地元球団という意識も強い。

しかし、わざわざ真空パックに詰めて売られているハムが、
亀甲縛り、ではないけれども、ぎっちぎちに縛られた状態であることの意味が、私は今だにわからない。

ただただ邪魔なだけであり、
企業が出すゴミを家庭に押し付けているだけだと思う。

真相を知りたい。

posted by hito at 19:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

意識のねじれを解いて

一人目

我々の言う「意識」の反対は、「無意識」ではない。
「意識していない」だ。

無意識は、寝ているときや、記憶にないのに家までしっかり帰ってきたりしているときのことを言う。
だから、私の無意識の時間は人より少し多い。

意識はややこしい。
だから、「意識」を「意識している」ということにしよう。
「無意識」の反対は、「(有)意識」にしよう。有限会社じゃない。今は小さくても株式会社だ。

あえていちいち意識論争の歴史をむし返すならば、
ある晩、3人目が2人目に向かって、
「お前の格好やら何やらは、○○○(有名人)を意識している。」
という指摘したのが始まりである。

今風の言い方で言えば、3人目は有名人に影響されている2人目のことを「痛い」と感じたのだろう。
2人目に限らず、周囲を見渡し、自分を顧みれば、そういう要素が溢れかえる世の中だなあと私は思った。

でも、ちょっと待ってほしい、とも私は思った。
2人目のことはさておき、実際問題確かに痛烈な人間はしばしば見られる。
カラオケに行っても、どこぞのロックバンドのライブに行っても、それは枚挙に暇がない。
痛烈な結果は確かに残念だ。だがしかし上手にろ過している人間もまた多い。
上手にろ過すれば、それはまた人生の愉しみでもある。
もっと言えば、人類は3大欲と同時に意識を抱えて生きている。
みんな、意識して、ろ過して生きているじゃないか、3人目だってきっとそうじゃないかと思ったのである。

私は、ドラゴンボールの食事シーンを観ると、腹の底から食欲が湧いてきて、
うっかり箸と食器をカチャカチャしながらかきこんでしまうことがある。
どうしても困ったときは、志村けん師匠の力を借りて、みんなを笑わせてしまうことだってある。
打撃の祖はいつだって王貞治であった。真似とは言わないが、参考にはしていた。
これらの状況下で、私は悟空と師匠と王貞治を意識している、していたと言わざるを得ない。

でも、3人目は違うと言う。俺は意識なんてしない。したことがない、と言う。
芸能人がテレビでウニイクラ丼を食っていても、なんにもそそられない。
ウニはウニの卵巣で、イクラはサケの卵でしかない。食えない。とか言う。
ポパイのほうれん草は美味そうに見えない。とか言う。
スラムダンクを読んだのは、バスケを始めた後だ。とか言う。
味噌汁は全部飲まない習慣だが、兄もそうであることに23年間気づかなかった。
だから意識してない。と締めくくる。

3人目の言い分は、ある意味正しい。
むしろ、7年前の私の言い方がいけなかったのだと思う。
しかしだ。
最近私が思いついた冒頭の定義を持ってくれば、3人目の味噌汁やスラムダンクは無意識の世界界隈の話を持ってきているのであって、
ウニイクラの件は、ただの好き嫌いであり、ポパイのことは所感である。

断っておかなければいけないが、私は3人目を論破したいわけではない。
ただ今、そう思っただけで、これが「意識しない派」を言い負かす材料にはならない。
かつての議論は、
「意識している」対「無意識」あるいは「意識していない」対「(有)意識」になっており、
さながらねじれ国会状態だったのである。

平成も23年を迎えた現在、今更誰が意識していて、誰が意識していないかをはっきりさせるために頑張る気はない。はっきりさせること自体に意味はない。
「意識している」を真似すること、参考にすることと決め付ける気もない。
「意識していない」は味噌汁を残すことだとは言わない。
もっと意識の世界を趣深く攻めていかないといけないのである。



posted by hito at 04:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする